01不穏な予感
熱斗が「何かおかしい」と思ったのはその瞬間だった。
ロールが倒れたナビに向かって歩を進める…天井の蛍光灯が音をたてて割れる…嫌な感覚…
前にも体験したような内蔵の温度ごと冷えていくような不快感。
あれは何処での体験だ。
あれは…!!
「ロール逃げろっ!!」
殺気立った周りの空気。
隣の男が何事かぶつぶつと呟き始め、少し離れた席では殴り合いの喧嘩が始まっている。
画面の中では倒れていたナビが弾かれたように身を起こした。息を飲む暇もなく地面から無数に突き出した
杭が至近距離からロールの身体を抉り、貫通まではいかなかったものの外皮保護プログラムと本体のプログラムが
激しく損傷して青白いデータの塊となって彼女の周りに所在無さげに漂っている。
それを見ていたメイルの表情はぼぉっとしたもので、視界に何も入っていないかのように立ち尽くしていた。
何が起きているのか全く判らないという表情でロールは画面に映し出された彼女の顔を見遣ったが、次の瞬間
バルカンの轟音に慌てて待避する事になる。
「メイルちゃん!どうしたの!?」
横にとびすさりながら叫んだ彼女の足元に再び蟻地獄が現れた。相手の銃口はもう既に定まっていて、犠牲者を血祭り
に上げる準備は既に整っている。
「死ねやぁ!」「熱斗君!」「トランスミッション!」
…どの声が一番早かったのだろうか。
「……?」
微かに不愉快そうに眉を顰め、ライカは辺りを見回した。そして再びパソコンに向かう。
プラグアウトするよう命令が出たにも拘わらず、彼は先ほどからサーチマンをPETに戻さずに何事かを打ち込んでいた。
熱斗からの返事を待っている訳ではない。それはPETに居ようが何処に居ようが関係のないことだ。主の不可解な行動に、
いい加減落ち着かなくなった彼は口を開いた。
「ライカ様、プラグアウトを…」
「判っている。あとはインストールだけだ。」
出来上がったプログラムを見て、サーチマンは目を見開く。ライカが組んだデータの流れは、シャーロ軍が電脳世界に
浮遊させている軍事衛星「サテライト」の使用権限を主人である彼からナビに譲渡するものだった。通常、サテライトへの信号は
バトルチップを通して送られその使用はオペレーター、つまりシャーロ軍人の判断に委ねられているが、
これによってサテライトはサーチマンの意志で動くことになる。
譲渡が許されるのは緊急事態だけなのだが、ライカはあっさりとそれをインストールして何事もないような
表情でプラグアウトを命じる…その瞬間だった。けたたましい警報が鳴り響き、オペレーターの声が口早にサブコンピューターの
不調を訴えシャットダウンを行う旨を伝えた。基地の中枢を担うメインコンピューターではないことに安堵しながらも、
どうしてだろうかと疑うような声音だった。
何かが近づいている…直感的にライカは感じたが、その正体が判らない。ただサブコンピューターの不調と言うことが
引っかかって仕方がない。可能性として一番考えられるのはウイルスだが、シャーロのサブコンピューターがウイルスを
認識できないのは少し奇妙な話ではある。
「そこ!コンピューターが回復するまで暫く扉の無いところまで避難していろだとさ!」
部屋から出てむっつりとシャッターを睨む彼に、恐らく誘導係にされたのだろう兵士が声を掛けてきた。
「この扉も何時閉まるか判らねぇ。急ごう!」
「原因は何なんだ?」
ライカが聞き返すと相手はさっぱり判らないと肩をすくめて見せた。ナビで調査した方が余程効率的なのだが、
先ほどの禁止令でナビは全員PETの中或いはコンピューターと連絡が取れない状態に置かれているため全くその道の
プロに任せっきりの状態なのだ。だがまず逃げるのが先決だな、と彼は走りながら言う。
ライカもサーチマンもその意見には賛成だった。シャーロの基地のシャッターは防火目的だけでなくテロなどの進入に備え
中の人間を封じ込める役割も持っている。勿論シャーロ軍ナビに組み込まれているパスコードで解除できるものではあるが、
プラグインが許可されていない今は抜け出すことは出来ないだろう。
だが、まさにその絶望的な状況が二人の前に待ち構えていた。半歩遅れて走るライカは視界の隅に降ってくる
壁を捉えた。断頭台のような勢いで眼前が白く閉ざされ、足を止めた時にはもう周りは完全に遮断されている。
「おい!?お前大丈夫か?」
一枚壁を隔てた所にいる兵士もどうやら同じ状況にいるらしく、ライカに向かって叫んできた。
「ああ。救助が来るまでは八方塞がりだが、幸い怪我は無い。」
淡々と答える彼の表情には焦りの色など全く見られず、かえって年輩の兵士よりも落ち着いているようだ。
一般兵とは違い彼らにはまだまだ使える手札は残っていた。使える手札ならば、多ければ多いほどいい…彼らの上官の
口癖だ。そして、ライカが持つ最高の手札は「大統領権限」。いざとなったらこれを振りかざして脱出することも出来る。
だが落ち着いてはいても気までは緩めていなかったのか、放送が入った瞬間には普段より険しい表情になっていた。
『不調に乗じてウイルスがサブコンピューターに進入した模様!プラグインを許可する…総員排除にかかれ!』
「たかがウイルスか…?」
「何ブツブツ言ってるんだよ?ついでにナビにロックを解除してもらえばいいんだから、万々歳じゃないか。」
「そうだな…」
浮かない声で呟く彼の視線は、手に持つPETへと真摯に注がれている。意図するところの判らないサーチマンは
ただそれを主の感情の揺らぎとして受け止めるだけだ。鮮やかだが濃度を感じさせない青い瞳に映るその揺らぎの中に
ふっと引き込まれそうな感覚を覚え彼は口を開いた。
「どうかなさいましたか。」
「いや。大した事では無い。」
何かを打ち消すように軽く首を振るのを見るや否や、サーチマンの意識はコンピューターの電脳へと飛んでいた。
今見た光景すらかき消すような慌ただしさの後、彼の目の前にはライカの不安を笑うかのようにいつもと変わらない
シャーロの電脳世界があった。
02 危機一髪!
怖いと思う感覚は無い。
(…嘘。)
バルカンに身体を撃ち抜かれながら、ロールが思ったのは現実味がないということだった。一瞬遅れてプラグインしてきた
ロックがシールドを構えて二人の間に割り込み、それ以上のダメージを防ぐ。疑似重力に引かれて倒れる身体を支えながら彼は
現実世界の熱斗に叫ぶ。データが辛うじて周りに留まっていたが、かなりの深手であることは間違いない。
「熱斗君!メイルちゃんのPETのプラグアウトお願い!このままじゃロールちゃんが!」
「よっしゃ、ちょっと待ってろよ!」
応急処置としてリカバリーを転送すると、威勢良く返しながら熱斗はスケートのブレードを上げると勢い良く走り出した。
赤外線通信通信とは言えナビが戻れる場所と言えばPETだけでそれはまだメイルの手元にある。今手持ちの回復データならば外傷は
回復できるもののほつれたデータの流れを回復するにはプラグアウトが必要だ。メイルのところにまで行かなければいけない。
スタジアムのアリーナに向かう席は熟知しているが、思わぬ伏兵がそこには待っていた。どんっと勢い良くぶつかってしまった
相手が怒りも露わに掴みかかって来たのだ。観戦にきていたのだろうか、かなりガタイの良い外人に襟首を掴まれて熱斗はじたばたもがいた。
「てめえ!」
「わ、わわわすいません…!ってぶつかっただけじゃんかよ!」
「熱斗君、たぶんこれ、ココロネットワークだよ!」
PETを通じて慌て声を聞いたロックが彼の危機に素早く口を挟む。凶暴化しているとはいえそれほどカスタマイズされていないナビは
彼の敵では無く、ロックには周りの状況を把握するだけの余裕があった。気がかりなのは崩壊寸前のロールだが、彼がどうこうできる問題ではない。
専ら熱斗のガイドに回るのは無理もないことといえた。
その助言に納得した表情になった熱斗は握っていたPETを男の顔面へ突きつけた。一瞬正気に帰りぼんやりした隙をつくようにして逃れる。
だがどうやら彼のちょこまかとした、というか周りに比べて明らかに生彩のある動きがかえって周りの注意を喚起してしまったようだった。
一斉に向けられる視線に頬がそそけだつ。人に憎まれるのに慣れていない分それは一層彼を焦らせた。
「そこらへんにサーバーは?」
「ちょっと、見あたらないみたい…もしかしたらあっち側のステージかもしれないよ。」
「判った。とりあえずロールを助けたら、プラグアウトするぞ!」
ロックが頷くが…その表情が恐ろしいものでも見たかのようにみるみる内に凍り付いた。熱斗が映る彼のPETとの通信画面の横に並ぶように
して、ロールの視界であるメイルのPETの光景が映し出されている。その窓一杯に、何かが瞬間的に「落ちて」来た。画面に広がった鈍い光と、
何かが壊れるような音がした瞬間、その画面が砂嵐になる。
微かに呟かれたロールの言葉がその予感を現実の物にした。人格プログラムから出るものとは違う乾燥した声で告げられた、
「エラーコード0711です。使用を中止し、ナビを一時安全な場所へ保管してください」の一言に彼の表情が変わる。PET本体の故障はつまり
プラグアウトが出来ないことを意味するのだ。だが焦ってばかりも居られない。ロックは同時に対戦相手の面倒も見なければならなかった。
まさか本気で攻撃するわけにもいかず、彼は出力を加減したショットで攻撃を相殺する。リカバリーが効いて少し外傷が回復したからか、
ロールは微かに目を開く。
「ロック…?」
「あ、良かった…。ロールちゃん、暫く隠れてて。君のPETは壊れちゃったけど、熱斗君が多分何とかしてくれるから…。」
それ以上喋るのは辛かったのか、彼女はこっくりと頷いた。内蔵された回復プログラムを総動員して外傷だけでも回復に努める。
バラバラになってしまったデータもとりあえず枠の中に納めたものの、これを元の形に戻すのはPETに一旦戻らないと出来ない事だ。
ともかくこれで一安心、後はもう少し時間を稼ぐだけ、とロックは再び相手に向き直った。
「ガキ相手に何やってんだよ!この無能ナビ!!」
だが、相手の意識は血相を変えてナビをののしるオペレーターに向けられている。顔すらもこっちを見ていない状態なので恐らく彼は
今が戦闘中だということすら忘れているだろう。
「うるせえ!主人面しやがってこんのヘボオペレーターめ!お前の技術じゃ生き残れるもんも生き残れねぇよ!
実際相手の小娘にバトルチップを転送する順番を読まれてただろうが!」
「くっ…てめぇ…ナビの分際で!消えろ!」
不意に…びくんとそのナビの身体が硬直した。まるで置物のように凍り付くと、ことりとも動かなくなる。PETから送信されてきた大量のデータが
すさまじい勢いでその身体に流れ込んでいく。
ナビとは元々0と1で構成された電子生命体であり、PETの中のプログラミングされた人格が便宜上人やらなにやらの形をとったものである。
だから膨大なデータを送り込まれたとしても、フリーズこそはすれ壊れることは無い…と、考えるのは間違いである。その外見…
つまり見た目を他と区別しているのはまたデータであり、そのスペックはナビやそのカスタマイズによりけりだが勿論限界がある。
だから圧縮という機能が存在するのだし、圧縮が下手な場合は同じ要領を持つ他のナビにくらべ大きいスペックが必要なのだ。
そして今、ロックの目の前では今にもナビのスペックが一杯になろうとしていた。…その先に待つのは爆発だ。水を詰めすぎた風船のように
中身をぶちまけ…囲いが無くなったデータは無数の破片になって散らばり、消失する。
「熱斗君!……!!止めてーーーーっ!!!」
あらん限りの声を張り上げロックは絶叫した。
ロックの叫びが何を示すものかは判らなかったが、低く笑いを漏らしながらPETを操作するオペレーターに不穏な気配を感じ取った熱斗は、
スケートの勢いを活かして相手の背中に飛びついた。当然のごとくバランスを崩してよろめく相手の手からPETをはたき落とすが相手も
黙ってはいない…必然的にもみあいになる。二人とも喧嘩慣れしていない素人ではあったが、まだとっくみあいになれば時折デカオと派手な
喧嘩をする熱斗の方に分があったようで熱斗は隙を見て相手の眼前にマグネメタルを搭載したPETをつきつけた。お守りはお守りとして
彼の首にかかっているが、万が一PETが手元から離れた場合を考えて熱斗の父、裕一郎はPETにもそれを組み込んでいたのだ…
そのPETの中に居るナビが死んだ彼の息子の似姿であることも、恐らく大いに関係しているのだろう。印籠を突きつけられた町役人ではないが、
そうとでも形容したくなるような呆然とした顔になった彼に警戒しながらも熱斗は用心深く落ちた相手のPETを手元に引き寄せて
ナビをプラグアウトさせた。
目の前で今にも爆発寸前だったナビがどうやら安全にPETにもどったことにロックは安堵の息を吐く。暫くしてから画面に
熱斗の顔が戻ってきた。いつも溌剌としていて、多少のマズイことでもさらりと受け流す彼にしては珍しい、「これはまずい」と
ありありと書いてあるような表情だ。
「やっぱメイルのPET破壊されてるみたいだ。…その辺りにウイルスは居るか?」
「ううん。居ないみたいだよ。」
「そっか…。そのフィールドの中からは見えないんだろうけどこっちから調べてみると、実はちょっと行ったところにワープがあるんだ。
秋原町の近くまでそれを使えばすぐに帰れると思うんだけど…ロールはどうだ?何とか歩けそうか?」
「うん、多分…」
ロールは小さく頷いてみせたが、相変わらず損傷は激しい。足元を修理したから歩けることは歩けるだろうが、回避など少しでも無理な
運動をすればまだわき腹に大きく抉れている傷からプログラムがこぼれてしまうのははた目からでもはっきりと判った。
「いやいや、いいよ無理しなくって…今のロールの状態じゃ、ろくに動けないだろーからとりあえず…」
そこで熱斗は一旦言葉を切った。最善の方法を求めるようにロックを見る。ロールの安全がとりあえず確保できた以上はサーバーを止める
ことが際重要事項なのだが、その間彼女をどうするのかということが問題だった。
PETに戻ることが出来ない以上、彼女は決して回復できない。リカバリーや彼女のプログラムはあくまでも外傷の修復、にかわづけであり、
あれほどの大きな傷を元のように一枚の外装に戻すことなど出来はしないのだ。おまけに、助けが必要だとしてもマグメタルを持つ人間と言えば
限られている。
ロックは考え込むように目を伏せた…秋原町も、科学省のHPも、管理されているためウイルスは殆ど居ないか、出てくるとしてもそれほど
強くないものだ。が、ウイルスがいないであろうこの場所が一番安全だと判断した。大会が開始される以前に一回清掃はしてあるだろうし、もし
残っていたとしても先ほど大会用に放たれたウイルスがデリートされる際に一緒に破壊されただろう。
「転送装置の近くで待っててもらっていいかな…?何かあったら秋原町に逃げてくれればすぐ迎えにいく。…サーバーを止めてくるまでの間だから
そんなに時間はかからないと思うんだ。」
その言葉にロールが頷くのを確認してから、ロックはおそるおそるといった感じで彼女に肩を貸すと歩き始めた。もう少し身長があればいいな…
彼は唐突にそんな事を思う。抱えていければ多分そっちの方がだろうし。無い物をねだってみても仕方がないことは判ってはいたが、こっそりと
ため息をつかずには居られない。小さければ小さいなりに不便と言うものはつきまとうものだ。それは多分大柄なナビも
同じ事を感じたりするのだろうが…。
「本当に、すぐ終わるから。」
彼が悪いわけでもないのにどこかすまなそうにロックは呟き、ロールにカードを一枚手渡した。現実世界で言うところの鍵の束に等しい
それは、世界中を走り回ってきたロックが持つパスコードのデータを集約したものだ。二人の見た目はそう変わらないにしても積んできた
経験や見聞の量は圧倒的に違う…その事を如実に示したのが、組み込むには重すぎる程に増えたデータ量だ。たかがパスコードごときを
外部用にして持ち歩くナビはない。
まるで本物のような質量を持つカードを受け取ったものの彼女の瞳はまだどことなく不安そうな色を浮かべていた。
「秋原町も様子がおかしいようだったら、科学省へ行ってみて。危ないと思ったら何処へ逃げてくれてもいい…転送履歴を使って迎えに行くよ。」
「うん…判った。待ってるね。」
ロールがやっと笑みを浮かべると、ロックもほっとした表情になってプラグアウトを熱斗に頼む。
あっと言う間に分解されて光の筋となる彼を、頑張ってねとロールは手を振りながら見送った。
その時は、彼らは露ほども次に起こることを予感してはいなかったのだ。
サーバーを止めて戻ってきたロックが見たのは、まっぷたつに叩き割られて青白い破片ををふよふよと漂わせる転送装置の名残だった。
巨大な騎士の幽霊のような姿をしたウイルス…スウォーデンが一体、何も見逃すまいとばかりに辺りを陛睨しながらその前に浮かんでいた。
03 狂った空に
「まったくさー、心臓に悪いよな。」
サーチマンの隣を走るナビが…どうやら主人と同様良く喋るらしい…苦笑いして声を掛けてきた。ライカ達が閉じこめられているシャッターの
解除と、何処から入り込んできたのか判らないウイルスの群の駆除を先ほどから分担して行っているお陰で随分と能率は良いものの、実際の
戦闘ポイントにつくまでの道のりは軽口でも叩かなければやっていけないほど長い。
「助けた相手のナビが、まさかあの『サーチマン』だったとは。」
「サーチマン」というのは実は彼個人の名前ではない。シャーロ軍のネット部隊で年に一回行われるテストの上位十名に尊称の意を評して
つけられる、あだ名、もしくはコードネームを示している。小佐や将軍同様に、一種の役職名のようなものだ。そして、ここ数年…彼がライカと組ん
で彼を主にするもっと前から…常にそのテストを主席で勝ち抜いてきたのが彼であり、ライカがとりあえず彼をコードネームで呼ぶので彼もとりあえ
ずライカに呼ばれるままになっている。そのこともあってか、シャーロ軍内で下に名前を入れずに「サーチマン」と言えば彼のことを指すようになっていた。
彼自身、見ず知らずの相手から役職名で呼ばれるのは当然と思っていたのでライカに忠告しようともしなかった。たまにこの役職から外れたら自分は
何と呼ばれるのかなどと考えたりもしたが、シャーロ軍ネット部隊のパイオニアとして作られ、カスタマイズを繰り返しながらかなりの数の戦闘をくぐり
抜けてきた彼自身の経験の蓄積は、そう簡単には越えられないと言うことを彼は良く知っていたので…改定は加えられないまま結局今に至る。
「あんたが逃げ遅れるとは思わなかった。いや、あんた達…か。」
声を顰めて相手はにやりと笑った。ライカの事を指してからかっているのは一目で判る…ライカはライカで、軍の中では有名な人間だ。と、そこへ
当人の無感動な声が会話に割り込んで来て彼は慌てて口を噤む。
「任務中だ。」
了解、と幾分小声で呟くと彼は真面目な表情に戻って黙々と任務を続けた。
やがて、今までトンネル状だった道が突然開け、シャーロの電脳の中枢の一角を担うサブコンピューターがまるで摩天楼のようにそびえ立つのを
眺めることが出来る場所にたどり着いた。道はさらに曲がりくねっているが、コンピューターは彼らの目の前だ。左目に装着されているレンズを通して、
サーチマンは塔の下の方にウイルスとシャーロ軍兵士の姿を認める。それほどの強敵ではないが、それよりも気になったのはどうしてそのような弱い
ウイルスが進入してこれたのかということだった。防衛用プログラムはあの程度の的ならば楽に迎撃できた筈だと思いながらも、彼は右腕をスコープガンに
変形させると遠く離れた相手に狙いを定める。直線距離で言うなれば400メートル弱あるが、その程度の距離からの狙撃は彼にとってみれば子供の手を
捻るような物だった。小気味良い音と共に放たれた銃弾に貫かれ、ウイルス達は苦悶の声をあげ次々無数の電子の塵と化して消えてゆく。
「すげぇ」
感嘆の声を上げる相手をサーチマンはちらりと見上げた。彼の武器も変形こそしているものの構えようとしていない辺りから判断すると、どうやらこの距離
から当てる自信は無いようだ。
「…先に行くか?」
と問い掛けると、彼は残念そうに肩を竦めて、
「ああ、ここからじゃ俺は狙えない」
「そうか。…では、後で。」
「…ああ。あんた…やっぱすげぇわ。」
そうか?とサーチマンは相手をちらりと見上げ、首を傾げるだけで問い掛けてみせた。
「恥ずかしい話…実は俺も、『サーチマン』なんだな。」
首にぶら下げていたプレートを彼が見ると、確かに役職名にはそのように刻まれていた。そしてその下の欄には、「アルカージィ」という彼の名前がある。
照れくさそうに笑うと、アルカージィは、精進するよ!と言って素早く駆け出していった。駆けてゆく足音を横耳で聞きながら、ふとサーチマンは何か奇妙な
物を見たような気がして目を細めた。
バイザーの倍率をあげ、それが何かを確認する…
コンピューターの上の部分に、それは居た。いや元々それが定位置のプログラムなので強調するのはおかしいかもしれないが、明らかにそのプログラム達の
動きは不穏だ。
先ほどライカから譲渡されたサテライトの一つにアクセスして、サーチマンはその光景を観察する…そして殆ど愕然となった。プログラム達がコンピューター
を破壊している様子がはっきりと見て取れ、彼はさすがに顔色を変えた。
「ライカ様!プログラムが自身を浸食しています!」
「……何だと?」
半ば呆然となりながらその言葉を聞いたライカは、唇をぎりっと噛みしめ呻くようにサーチマンに命令を下した。プログラムを行動不能な程度に損傷させよ、と。
一体何が起きているのか判らないという不安に、またもやライカは捕らわれ始めていた。
「プログラム自身による、コンピューターの、破壊。」
状況をもう一度繰り返す。
(そんな馬鹿な…。)
そんなことがあっていいものか。彼は思うが、そこに横たわるのは紛れもない現実だった。
ライカの命令通りプログラムの停止…つまりこの場合は電脳世界でうろうろするプログラムの捕獲行動の停止とを示すが…に向かったサーチマンは否応なしに
その理由を知ることとなる。
コンピュータの元へ向かうその途中に一瞬視界が歪んだような気がして彼は思わず足を止めた。人間で言うなら目眩、とでも形するような不可解な感覚に
頭を振って、目を上げた、それはまさにその時。
何もかもが狂っていた。
笑い声を上げながら銃を乱射するものや、床に頭を打ちつけるもの…先ほどまで冷静にウイルスを始末していたシャーロ軍兵士達とは思えないような逸脱した
行動を取る彼らを目の当たりにし、サーチマンはライカが正しかったことを悟った。ココロネットワークの働きのせいで感情部分が増幅されてしまった彼らには殆ど
理性などは残っていない…弾丸が身体を掠めたのか、床に無気力にぐてっと伸びていた兵士が跳ね起きて相手に殴りかかった。
先ほどからのプログラムの不穏な動きは恐らくサーバーから出る電磁波にやられたのだろう。目の前で起こる事態にパニックに陥りかける気持ちを懸命に宥め、
彼は視線を巡らせる。
(だとしたら、サーバーは…?)
どこだ、と考えるとほぼ同時に左目に映し出される光景がみるみるうちに変わった。
利き腕により異なる場合もあるが、シャーロ軍のナビには必ずもう一つの視界がある。気取った言い方をすれば「真実の目」だが、実際は何のことはないただ
電脳世界をデータの集合体として見る視界のことだ。視界の届く限りはこれで探し出せない物は無い。総てが0と1に再び形を戻し奔流のように流れ込んでくるが、
辺りを一瞥した時には検索は終わっていたもののサーバーは見つからず、プログラム達に銃を向けながらサーチマンはライカに次の指示を仰ごうとその旨を伝えた。
「ここからすぐ破壊できる位置にはサーバーは存在しません。プログラムの動きは既に停止…。ウイルスの気配は0。ライカ様、次のご指示を。」
冷静なナビの声にライカは「兵の武装解除を!」とちょっと苛々したように返した。
サーチマンが少しの沈黙の後、了解、と答える。ウイルスがいつ来るか判らない中武装解除というのも危険極まり無いものではあるが、シャーロ軍が常備している
ライフルがコンピューターにとって今は最も危ないと考えた末の苦渋の決断に、サーチマンは何も言わず従う。一応伺いをたててはみたが、恐らく彼にもそれが
必要なことだと分かっていた。
画面の中で、ナビ達が次々武器…否、左腕を破壊されていく。これしか手は無いが、これで彼らは戦う術を失ったことになる。シャーロ軍のナビなら、と半ば願
いを込めてライカは思わずには居られなかった。例え素手でも、相手にとっての驚異であって欲しい。
彼の目の前では、先ほどまではなれなれしく面倒を見ていた兵士が、隙を見せれば殴りかかろうという表情で慎重に間合いを詰めてきていた。
(例え、素手でも。)
ライカは厳しい表情のまま相手に向き直る。
そう、その時は男の手には何も握られていなかったから、ライカも相手を昏倒させようとしか思わなかったのだ。
そして唐突に走る熱。
目を見開きながらも、彼は冷静さを失っては居なかった。ナイフを持ったまま笑みを浮かべる男のこめかみを、手近にあった堅いもの…PETで殴りつける。
低く呻いて昏倒するのを見おろし、ライカは眉をしかめながら刺された部分を見おろした。シャーロ軍御用達のナイフは鋭利で、鮮やかな切り口はそれなりに深い。
「くそ…」
小さく毒づいて彼は簡単な応急処置をとったが、それしきで何とかなる傷ではないことを彼は良く知っていた。一刻も早くサーバーを止めて、医療施設かどこかで
縫うなり何なり手を打たなければいけないような傷だ。失血で倒れる前に。
まだシャーロ軍を相手にしていたサーチマンはこちらを見ては居なかった。彼はこの傷に気づいていないだろうと判断し、ライカは任務を続投することにする。
なるべく平静を装って彼は次の指示を出した。
「後ろの扉のロックと、引き続きサーバーの検索を。」
だが、下された命令に、忠実な彼のナビは意外な返事をした。
「計算の結果…現実世界でのココロネットワークの被害の理由は、直接置かれたサーバーではなくスピーカーなどを媒介とした超音波だということが判明
いたしました。建物の外まで出れば、電話や救命要請も通常通り発信できる物かと思われます。」
予想もしなかった反応にライカは戸惑って訝しげに聞き返す。
「何を言っている…?」
「そして、半円状に電磁波が発生されているとするならば、発信元は裏インターネットです。」
「それなら裏に向かうまでだ。」
微かに苛立ったようにライカはサーチマンの言葉を遮った。何よりも任務を優先しようとする姿勢は軍人の鑑とも形してよいようなものだったが、今回は少々
勝手が違う…早く問題を解決するよりも確実に任務をクリアすることが、結果としては求められている。一度態勢を立て直すべきだ、とサーチマンは暗に言って
いるのだが、ライカは今日に限って依怙地になっていた。恐らくこの建物の中に閉じこめられているかもしれないシャーロ兵士のことを考えているのだろうが、ここで
引くわけには行かない、と彼は考えているのがサーチマンには良く判った。
「先ほど監視カメラからの映像を見ました…そのお怪我では任務成功の確率が大幅に下がります。他の方々がココロネットワークと渡り合えるかどうかを考慮して
ご決断を。」
その言葉に、滅多にないことだが、ライカの表情が微かに嫌そうなものになる。シャーロ人特有の細い鼻梁の頭と眉根に微かに皺が寄る。明らかに機嫌を損ねた
ような顔だったがサーチマンは彼が次の命令を下すまで口を開く気は無かった。
実際はほんの僅かだっただろうがひどく長く感じる沈黙の後、彼は呟くように命令を下す。
「出口までの最短経路の確保を。」
「了解」
04 33% 〜私の三日間生存率〜
殆ど床にぺったりと座り込むような姿勢で、ロールは先ほどまで戦場だった空間をぼんやり眺めていた。
突如現れた巨大なウイルスにパニックを起こし、ロックから預かったパスコードのどれを使ったかも判らないままやってきたこの場所でも、目の前で意味の判らない
言葉を喚き散らしながら同じような外見のナビ達が争っていて、彼女は流れ弾に当たらないようにそろそろと物陰に隠れたのだが、その一瞬後、何処から飛んで
きたのか判らない無数の弾丸…スプレットガンかと思いきやまるでミサイルのように軌道を変えた銃弾…が、立ち並ぶ兵士達の右腕を破壊し、更に麻痺のような
状態にまで追い込んだのだ。
それっきり不気味なほどに静かになったこの場所に、ロールは座り込んでいる。床の冷えた感触が脚からだんだん上へ登っていくようだったが、動く物に反応して
弾丸が飛んで来るのではないかと思うとうかつに動くことも出来ない。
ロックがここを見つけられるだろうかと考えると段々気が滅入ってきて、大きくため息をついた瞬間、男の声が飛んで来た。低く硬質で、艶を消した銀のような声は
何処と無く聞き覚えがある気がしたが、それよりも命令するような厳しい語調がまず耳を打った。聞き慣れない言葉にロールは反射的に身を縮める。
間を隔てる障害物を透かして見た明らかにおびえている相手の態度にサーチマンは言語システムを相手の国籍に合わせ、再び声を掛けた。
長い金色の髪と布を思わせる素材を使用した鮮やかな桜色の外装という、ナビとしては異例の外見は一度見たら記憶に焼き付くほど良く出来上がっているものだ。
記憶を辿るまでもなくメモリは難なく相手の国籍を引っ張り出して来た。素早くシステムをシャーロ語からニホン語に切り替え、もう一度声を掛ける。
「言っていることが判るか?こちらに攻撃の意志はない。」
おそるおそる、と言った体で顔を覗かせた相手が彼の姿を見てはっと息を呑んだ。それはそうだろう。サーチマンには判りきっていたが、相手にはその時こちらが
何者なのか判っては居なかったのだから。その音が生々しく尾を引くような沈黙のあと、微かに震える声で彼女はおそるおそる彼に訪ねた。
「あなた…ネビュラ事件の時の…?」
「ああ。」
短い答えだったが、会話が成り立ったことに安堵したロールはほっと息を吐いて、そろそろと姿を表した。
「良かった…。と、言うことは此処はシャーロ?」
「厳密に言うなればシャーロ軍軍事要塞にあたる。…どうして一般ナビが此処にいる?」
サーチマン本人にその気はなかったのだが、彼の口調は随分と詰問するようなものとなっていて、ロールは幾分申しわけなさそうな表情を浮かべると彼を見上げた。
「ロックから借りたパスコードを慌てて使ったら、此処に飛んで来ちゃって…もしかして。ううん、もしかしなくても立ち入り禁止区域だった?」
「通常ならば。」
淡々と答えながらも、ロックマンならば仕方が無いことかと彼は嘆息する。目の前の少女も、とてもではないが好き好んでこのような物騒な場所に来るようなナビには
見えなかったのだし、大変頭が痛くなるような結論ではあるが、本当に偶然にやってきてしまったのだろう。何とも厄介な偶然だ。
「私…不法侵入になっちゃうのかしら?」
「それは無いが、戻れるものなら戻った方が良い。今はこちらも緊急事態で、安全とは言い難い状態だ。」
「……凄く、申し訳ないんだけど…」
ますます不安そうに眉根を寄せるロールを見て、サーチマンは本日何回目かになる嫌な予感が再び頭をもたげてきたのを感じた。
但し、今回のそれはまだ予想内の範疇だ。ロールが半分くらい泣きそうな表情で指し示した先にあった転送装置は、やはり半分以上が瓦解していた。
スウォーデンの攻撃は、向こうの転送装置のみならず、データとして転送されたついでにシャーロの転送装置までも破壊させてしまったのだ。
どこをどうやったらこうなるんだ?と内心首をひねりながら、彼はあきれたようにその光景を眺めていた。
「………」
「これって、私が壊したことになるのかしら?」
「…いや、恐らく平気だろう。」
暫く沈黙してから彼はきっぱりと否定するが、その沈黙が妙に彼女を当惑させてしまったらしい。本当に?とでもいいたげな表情を浮かべてじっと見上げてくる。つくづく
自分は日常の会話には向いていないと内心呟きながらも、サーチマンはもう一度、問題ない、と繰り返した。彼女はやっと笑みを浮かべ、小さく胸に手を当てて息を吐く。
「良かった!…所で、さっきからライカ君の姿が見当たらないんだけど…どうしたの?」
「ライカ様は退却された。」
「え…?」
「先ほど怪我をされたので退却を勧めたのだが、その途中で離散してしまった。」
「そう…ライカ君が怪我って。ちょっと想像つかないけど…もしかして、こっちもココロネットワークが?」
「ああ。」
頷きながらサーチマンは先ほどのことを思い出していた。
傷が広がらないよう走ることは控えていたが早足で進むライカをサテライトを通して追いかけながら、サーチマンは緊急用のパスコードで次々とロックを解除して回る。
無事に脱出…出来るはずだった。その筈だったのだが、監視装置の目の届かないところに潜んでいる兵が一人居たのだ。門を出て、プラグアウトしようとPETを取り
出したライカに彼は飛びかかり、丸太のような腕で首を締め上げる。年の割には長身の彼が、宙に浮き上がらんばかりになるほどの力だった。暴れたせいで傷口が開き、
再び上着に血が滲む。濃い色の上着だからそれほど色は目立たない筈なのが、何故かその赤は強烈なまでの強さでカメラ越し視界に飛び込んできて、目を灼く。人間で
あれば「目眩」と形容するような感覚の後、瞬間的にサーチマンが思いついたことは、後で発覚すれば消去されるかもしれないようなことだった。
防衛プログラムにアクセスすると、最寄りの防衛システム…それは門の側に飾りのように備え付けられている機銃だった…を確認する。これで飛行機を撃ち落としたと
いうことが信じられないような旧世代の遺物を模しているが、実はインターネットからのアクセスもできるようになっている歴としたものだ。
サーチマンの選択、それは相手への攻撃。
軍法会議にかけられるかもしれないという可能性は、まったく頭に浮かばなかった。感情や理性なしに銃を扱うのは、彼にとってみれば赤子の手を捻るような物に
すぎなかった。軽い音を立てて電脳世界から放たれた弾丸は、次の瞬間狙い違わず男の腿を掠めていた。予想外の苦痛に男は絶叫をあげてライカを離す。
危機を回避し、一息ついたのも束の間、災難はまるでライカを殺そうとしているかのように降り注いで来た。銃声を聞きつけたシャーロ兵達が姿を顕したのだ。
プラグアウトを、と呻くライカは、反動で取り落としたPETを拾い上げようと手を伸ばすが、そんな時間は残っていなかった。先ほどの痛手から立ち直った男は、憎悪に
血走った目で彼を見据えている。
思ったより立ち直りが早い、など、そんな事は考えられなかった。
その時感じた戦慄は、かつて、まだこの世界が出来たばかりの頃の戦場を思い起こさせた。まだ軍同士が戦争をしていた時代、今となっては過去のネット世界。
お逃げください、と丁寧な言葉を使うことすら忘れ、彼は逃げろと怒鳴っていた。まるで雷に撃たれたかのようにはっと顔を上げたライカは、何とも言えない表情で
何かを言い掛けた。が、すぐに唇を噛みしめると辺りを見回すと走り出す。
ライカと兵士が何とかココロネットワークの圏外に出たというのが判ったのは、そのすぐ後、シャーロ軍のヘリがその辺りに着陸するのを見たからだった。
失血による体温低下を考慮に入れてもまだ絶対に安全な時間帯ではあったので、彼はとりあえず残りの兵士達の武装解除に向かい…そこでロールと出会ったのだ。
そこまでの説明を受けたロールはなるほどね、と頷いて、これからどうするの?と彼に問うた。
「…PETがあそこにある以上、援軍は期待できない。今からウラインターネットに向かって、サーバーの破壊に向かう予定だ。」
「私も、ついていっていい?」
「…?」
「私、あんまりバトルとか得意じゃなくって。シャーロのウイルスって、強いのが多いし…。あなたといた方が安全な気がするの!お願いっ!」
「…」
サーチマンは思案に暮れながら彼女を見下ろした。
シャーロのウイルスですらてこずる様な彼女だから、ウラインターネットに連れて行けば足手まといになることは間違いない。だが、一人よりも二人の方が敵の攻撃が
散るということもあるし、以前世話になった彼女の治癒能力も捨てがたい。
何より、知り合いのナビをここに置き去りにしていくのも、寝覚め(ナビにそんなものあってないようなものだが)が悪いような気がする。
「…分かった。」
ため息混じりに頷き、彼は結論を出した。
つづく。