滑るように盤の上を動いた白いクイーンが、黒いビショップの駒を蹴り倒した。
「チェックメイト。」 獰猛さと甘さが奇妙に共存する、低い声が微かな愉悦を含んで囁く。
 追い詰められたのは黒の王―前に進めば白い王が、動かなければ女王が容赦なく断頭の刃を振るうだろう。完全なまでに
追い込まれた状態の中、
「…まぁ。」
  向かいに座っていた女は、大して驚いた様子もなく呟いた。ポーン をクイーンに昇格させて寝首をかこうと狙ったのだが、
その意図は際どいところで相手側のキャスリングに阻まれ…その時から、敗北するような予感はあったようだ―長い睫に縁取られた
目元が、微かに苦笑を浮かべて、正面に座る男を映す。
「あっけないものだったな…チェスの話を持ちかけてきたから少しは骨があるのかと期待したが。…貴様もこのコマの様に使い捨てか?」
 く、と口元を歪めながら大理石の机の上に転がったビショップ…キングを狙っていたルークを倒してクイ ーンに取られた使い捨ての
駒を指し、男はさらりと言い放った。顔立ちはまだ青年のそれであるが、身に纏う威厳と傲慢さは、既に老成した帝王のものだ―
『狂皇』と恐れられるのは、ただ単にその残虐さだけではないのだと思わされ、彼女は微かに小首を傾げて返答する。
「さぁ…?私が使える駒なのかそうでないのかは、貴方次第でしょう。…使える捨て駒かもしれないし、無能な生き残りかもしれないわ。」
 声高に自らの有能さをひけらかすわけでもなく、だがけして無能だと卑下するわけでもない曖昧で傲慢な回答だったが、男は何故か
愉快そうに笑い声を上げた。
 その笑いがどのようなものであるか、確かめるようにちらりと視線を投げかける。この場でこの男の機嫌を損ねてしまえば、叩き
切られることは間違いない。こちらは丸腰―しかも動き辛い正装だ。逃げ切ることはほぼ不可能だろう。
「使える程度にまで昇って来れぬ者は、死ぬだけだ。無能なヤツはいらぬぞ?」
「貴方がいるその場所に、昇るに足る価値があれば…昇るでしょう。」
 だが男の表情には、見下すような色はあれど、怒りは無かった。どこまで平気なのか―ポーンを進める慎重さで返すと、
「ふん、まだ自分に選択肢があるような口ぶりだが…ここでチェスをすることを選んだときから、貴様の足元には屍が転がっている。
 昇りたければもっと積み上げろ、降りるなら…貴様もソレの一部になるしかないぞ?」
 脅すような返答が帰ってきた。腹を探っているのか―それとも興味があるのか、問いかけた相手の視線はまだこちらを向いている。
「いいえ。」とその言葉を否定しながら、彼女はここぞとばかりに笑みを浮かべた―このプレッシャーの中、笑みを作るのは意外に難しい。
卑屈になっても、あるいは傲慢が過ぎても―作り笑いだとバレても、良い結果がもたらされることはないだろうが、彼女には、外交の時に
おいては自分の笑顔が鉄面皮であるという絶対の自信があった。却って肝が据わってしまうと言った方が正しいだろうか…薄いヴェールを
被った朧月を連想させる、美しくも危うい外見とは裏腹に―彼女の本質はなかなかしたたかで頑健だ。
「貴方のルールで戦うならば、そうなるでしょうね…皇子。でも…私がもし、チェスをするのではなく、 貴方という存在を見るために
 この場所に来たのだとしたら…その前提、根本から覆るのではなくて?」
「ふん…では、何を見にきたと?」
 強者の残酷さ。見下ろしてくる瞳はそんな風に形容するのがぴったりだった。猫が瀕死の鼠を前に、今すぐ殺すべきか、生きながら
食べるべきか―考えているような、そんな視線。しかし、彼が幾ら強く美しい肉食の獣であれども―その前に立つ彼女が必ずしも、
ひ弱な生き物であるとは限らないことを知らせてやらなければいけない。
 怖じる事なく真っ直ぐに相手を見返し、彼女は囁くように呟いた。
「…あなたは私が仕えるに足る人間かしら―ということを。」


 再び哄笑が響いたのは、一瞬の沈黙の後だった。
「気に入った!女…名はなんだ?」
 先程も一度名乗った筈だが―やはり彼にとっては関心の無い人間の名前などどうでもよかったのかもしれない。今度は覚えるだろう―と、
「フォーチューンよ」と噛んで含めるように返すと、
「…フォーチューン、よ。」
「バラッドだ」
 礼節上、相手も名乗り返してから微かに目を細め、「フォーチューンか…いい響きだ」と続けた。
「あら…狂皇と呼ばれていた方だから、どんなものかと思っていたけれど…。ふふ、以後お見知りおきを、バラッド皇子様。」
「狂皇か…くくく、間違ってはおらん。だが、強く 美しいものを愛でるくらいの感情はあるつもりだ」
 予想だにしなかった言葉に一瞬だけフォーチューンは虚をつかれる。何事も無かったように返答しながらも相手の言葉の裏を取ろうと
考えをめぐらせるが―バラッドは全く、自分の放った言葉に頓着した様子は無かった。先程のチェスの時とは、僅かに違う―この皇子の噂や、
滅ぼしつくしてきた街の数からは窺い知ることのできない一面を覗いたような感覚に、にわかにこの相手に対する興味が湧いてくる。
「…強さと美しさ、それを求めるのが、貴方の生き方なの?…そのためには、 どれだけの犠牲を払っても構わない―そういうこと、なのでしょう?」
 それは純粋な興味からだし、無視されてしかるべき問いであったが、彼は意外な事に
「一つ間違っているぞ?俺は無から産まれる物が見たいのだ…分かるか?」
 と逆に問いかけてきた。
「その為には、今ある全てが邪魔だと思わんか?」
 この質問も政治外交なのだろうかと一瞬思ったが、理知的で獰猛な獣の瞳は…そんな回答を必要とはしていなさそうだった。
「あなたの考え、理解はできるけど…」漠然と、自分が彼に興味を持ったように彼も自分に興味を持ったのだろうと感じ、
フォーチューンはあっさりと「同意はできないわ」と本音を告白した。斬られる―という恐れは、いつの間にか消えていた。
「皇子、何故貴方は―無から生まれるものに惹かれるの?」
「あるものから生まれたものに興味はない。闇しかない世界に何か生まれるのだとしたら、そちらの方が面白いとは思わんか?」
「それは何故?…闇しかない世界から、尚も生まれるものがあるとすれば―力強く気高いものであると考えているの?」
「そんな、模範解答に俺が心を揺るがされると思うか?」
 バラッドは興ざめしたようにふっと息を吐く。その仕草が本当に呆れたようなものだったので、
「ふふ、少しは期待していたわ…。ここであなたが頷いてくれたら、貴方はまだ私の想像が及ぶ人間だということだもの。」
「俺はただ、それを見ることができればいい。それがどのようなものであるかは…その時になれば、自ずと判るだろう…違うか?」
「えぇ。勿論、結果が出れば―嫌が上にも判るでしょう。でもそれでは、私や普通の人間達は納得できないわ。今あるもの全てを排除するならば―
  できるものはより面白い、或いはより素晴らしい―そういう期待があるからこそ、人々は動くのよ。
  貴方のような考え方をする人はきっと、殆どいないでしょうね。」
「『人々は』か。…そもそも何故、下に思いを馳せる?」
「…」
「見ろ、我々のいる足元を。屍で築き上げたこの王道こそが、我ら進むべき道だ―下らぬ者達の感情に想いをはせるなど、愚かだと思わんか?」
「民を下らないとするその一点では、永遠に私達が相容れることは無いでしょう。」
 統治者としてのスタンスが大きく違うのだ…ここは話し合うところではない、とフォーチューンは言外にきっぱりと告げる。
「ふん…物好きな王だ。」と言いながらも、バラッドは続けろ、とでも言うかのように首を傾げた。
「皇子…それにね、屍で作られた王道だとしても、その屍の中には―民のものであった死体もあるはずよ。」
「殆どが民のものに違いない。…あれらは弱い。屍になる位しか役に立たないのだから―そんな雑魚に気を使う必要すらないだろう。」
「いいえ。民の思いは馬鹿にできない―屍の道の繋ぎとなるのは、生きた民の思いよ。…民が信じ」
「はっ!それは民を騙すことだろう。…騙して隙を突けば、貴様は満足か?…嘘は嘘でしかなく、本質を変えることなど出来はしないぞ?」
「いいえ…隙を突くのではないわ。…でも、嘘を真実と信じた人間の思いは、時に本質を捻じ曲げる。」
「詭弁に聞こえるな。」
「真実よ。」
「ふ…。そうか。それでは、フォーチューン…お前は俺をそのように導くとでも言うのか?」
「貴方を導けるなどとは思っていないわ。でも―貴方の行く王道が強固かどうか、私ならばその足場を見定めることはできるでしょう。」
「……随分と大きな口を叩くな。」
「言ったでしょう?『使える捨て駒か、無能な生き残りか―それは貴方次第だ』って。」
「…よくこの俺相手にそこまで言ったものだ…。まぁ、お前の言葉だから、もう少し耳を貸そうじゃないか。」
 バラッドは鷹揚に肩を竦めながら「その前に…紅茶でもいかがかな?」と良いタイミングで運ばれてきたティーポットを軽く持ち上げてみせた。