「おばけなんていないって、わかってはいるんです。」

 

 部屋の片隅で、膝を抱えて座り込んでいた少女は、自分のつま先を見つめながらそう呟いた。雷が酷い嵐の夜、誰かが窓を叩いたような音がした
のだと泣きそうになりながら、お気に入りの人形を抱えてジグムントの所へやってきた麗奈は、先ほどから冷たい床の上から動こうとしない。
 彼女が今背もたれにしているのは父親である悟のデスクであり、すぐ隣には座り心地の良さそうな革張りの椅子があるというにも関わらず、だ。
 何故床の上に座り続けるのか―恐らく彼女は父親がここにいるかもしれないという淡い期待を抱いてこの部屋にやってきたのだろう。その期待は
外れたにせよ、彼女にとってここはあくまでも「父親の席」であり、自分が座ってはいけない場所だと考えているに違いない。或いは、父親がここに
やってきて、椅子に座ってくれたらという希望を棄て切れていないのか。
 ジグムントから言わせれば、玉座でもなんでもないただの作業用の椅子に誰が座ろうと問題はない。しかし、麗奈がそのように立場を弁えた
上で椅子に座らないのであれば、行為の正しさは別としても彼にとっては非常に好ましいことであった。

「お前の年ならば、まだ幽霊を信じていても可笑しくは無いはずだがな。」
 馬鹿な娘と嘲笑う代わりに彼が呟くと、麗奈はほんの少し嬉しそうな笑みを浮かべ、
「お父様にちゃんと説明してもらったから、わかってるはずなんです。」
 と返してきた。
 かすかにジグムントは目を細め、麗奈に聞こえないようにこっそりと息を吐く。
 傍目から見ればどう見ても不遇の立場であろうが、それでも幸福を見つけようとするのがこの子供の強さであり、故に、この子供は哀れだった。
 愛情や情愛は、恐怖や権威よりもより強く人を動かすと彼自身知っていたが、子が親を慕う思いというのはそれ以上ではないか。そう思いながら
「……そうか。」
 と適当に相槌を返すと、
「……へいかには、こわいものはありませんか?」
 思いもよらぬ問いかけを、麗奈は投げかけてきた。
 唐突な質問に、ジグムントは暫く沈黙する。
「無いだろうな。」
「ほんとうに、ですか?小さい頃は何かが恐かったとか、そういうことはありませんでしたか?」
「…ナビである私に小さい頃という時代は無いが。」
「あ…」
「…私はもともとそのようにプログラムされている。…王である以上、恐怖などという感情は必要ない。」
「はい…。」
「私の話を聞いても、お前には何の利も齎さないだろう。」
 そういわれて、麗奈は明らかにしゅんとした表情を浮かべた。こういうとき娘を慰めるのは主に母親の役目ではないか―カストラートを呼ぼうとした
とき、不意に何故か、頭を過ぎった顔があった。
『僕は、ママが死んでしまうのが一番恐いけど。』
 麗奈と同じように片親しか持たない少年だったからか、その母親のことを思い出したからか、それは定かではない。
『恐くないフリをしてるだけさ。君みたいな弱みの無い男に、弱い所を見せるのは真っ平だ。』


 たしかあの子供はそういっていたはずだ―そう考え、少し逡巡した後、ジグムントは口を開いた。
「…とりあえず恐くないフリをしてみるがいい。」
「ふり?ですか?」
「相手が幽霊だろうが何だろうが、弱みを見せたならば負けだと思え。威を以って挑めば、案外向こうの方から道を空けるだろう。」
 神妙な顔で麗奈は頷き、お部屋に戻ります、と立ち上がってパジャマを祓った。
「…もう一度、お部屋でがんばって見ます…!!」
「いい心意気だ。明日、平気だったかどうか結果を報告しろ。」
「はい!」


 ぱたぱたと、慌しく部屋に戻っていく足音が消えていくのを確認してからハッキングを行って部屋の電灯を全て消すと、先ほどまではそれほど気に
ならなかった風の唸りが、獣の咆哮のように強く耳を打つ。

 高いビルの上では風が強い。窓を叩いたのが、飛んできた砂粒だったのかそれとも小枝だったのか知る由もないが、麗奈ほどの年の子供ならば
怯えるのも無理はないような嵐の夜。


「―お前が他人以上にあれに冷たいのであれば、母親だけは残してやるべきだったのではないか、悟。」
 ぽつりと呟く言葉に返答を返したのもまた―風だけだった。