「神よ、どうか彼女だけはお救い下さい。あなたに愛された娘といえども、あなたが与え賜うた試練は過酷すぎる―」
 それは、全てを約束されて生れ落ちながらも、神を見失った男の祈り。

「私ははただあなただけのために天国を願う。」
 それは、運命の名を冠しながらも神を棄てた女の祈り。




 唯一にして絶対、完全無欠の神。それこそがその時代を生きた者達の最大の「理由」であった。そしてその名の下、
ありとあらゆる蛮行が赦されていた時代だったというのもまた、揺るぎの無い事実。
 神に導かれた乙女が、神の名の下にフランス軍を勝利に導き、シャルル王太子を即位させたのは誰しもが知る歴史の事実。
 だが、その時華々しく功績を挙げた後の、彼等がどうなったのか―知る者は少ない。



 華やかなパリへの凱旋と戦場の喧騒から一転、そこは薄暗い牢獄だった。視覚よりも嗅覚が、先にそこで行われた陰惨な事件を捉える。
鼻をつくような人間の臭い―人間と言う生き物を構成する全ての器官、その中を流れるありとあらゆる体液がその場所にはぶちまけられていた。
冷たく湿気た牢の中で、それらは乾くことなくじくじくと腐り、鼠達に食まれながらただ無に還るその時を待ち続けている。
 そしてその汚濁の中白々と浮かび上がって見えるのは、鎖に繋がれたままの青年の姿。白子を思わせる乱れた髪が、汗でいく筋か額に貼り付いていた。
…これがかつては権勢を誇り、祖国を救済した英雄の一員だと誰が想像し得ようか。常人とは一線を画して美しく気高くはあるが、彼が置かれているのは
一囚人よりもはるかに劣悪な環境だった。
「聖乙女よ…」
 呟くその瞳は疲労のためか茫洋とし、夜の湖のように深く澄み、ゆらゆらと揺れて頼り無い。だが、そんな中でも彼が呟くのは自らの救済ではなく、
想い人の安否。自分よりも他人を思う青年のその優しさが、高潔さが、この命を投げ出しても惜しくないというほど愛した「誰か」の姿に被る。


 正義という言葉の前にありとあらゆる蛮行が赦された時代に生きた青年は、誓いと主に生きる騎士だった。
 そして彼女が愛した英雄は―戦乱の世の導き手となるべく神の座に自らを磔にし、最期には躊躇わずに命まで差し出した。
 二人の共通点はただ一つ。「自分自身のための命を持たない」という一点。


 だから彼女は、命を棄てることを誓っていた騎士が思いを翻し、ひと時でも生き続けるに足る幸せを手にすることを願って、彼と、彼が愛した聖乙女の
軌跡を追う事にしたのだが…彼の行く先に待ち受けていたのは、冷たい牢獄と、地獄もかくや、と言うほどの暴虐だった。
 もし神がいるとしても、神に見放されるだけの非が彼にあったとは思えず、ましてや彼の愛した少女―「オルレアンの乙女」に、あんな悲惨な最期を迎えて
しまうに値する罪があったとは思えない。

『私はただあなただけのために天国を願う。どうしようもなく欲張りなあなたの願いが叶う場所があることを祈るわ。』
 神の存在など信じていなかった自分が、限りなく神に近い存在に成ろうとする彼にぶつけた言葉がふと思い出された。あの頃から自分は、
神がただの心の支えでしかないと信じていた。それを聞いて哀しそうに笑う英雄こそが、ある意味では彼女の「神」だった。


 しかし日の当たらないこの牢獄で、彼が声を嗄らして祈っている相手は「絶対者」として仮定された存在。それが無力であもるとすれば、それはまた悲惨な
ことでもあった。
 神の名を唱え、祈りが天に届くことを信じることが僅かながら心の糧になるとすれば、彼を今生かしているという一点で神は価値を持つ。だがその祈り全てが
意味を持たないのだとすれば―その切実な願いは一体どこへ行くべきだろうか。
「例え無力であろうとも、私はあなたのために神を願う。」
 これは最早定められた運命であり、彼が辿る道に変更は聞かない。だが、最愛の人の消息も知らずに、この地下牢で地獄を眺め続けるのであれば、それは
不憫すぎる。

 音を立てて牢が開く。端正な顔に歪んだ笑みを貼り付けた僧服姿の男が、作業着の男達を伴って入ってきた。何を、と迷ったのは一瞬。下卑た笑みを見れば、
何を期待して彼等がこの場所にやってきたか想像するに難くない。「上玉じゃねぇか」とものを賞賛する口調でやってきた一人が、騎士の髪を鷲掴み上向けた瞬間、
「見、るな…」
 低い怒りを孕んだ声が呟く。
 その声は机の端に腰掛け、聖書を開いて禁じられた道に走る男たちのために楽しそうに祈りを呟く神父に向けられたものであることは間違い無かったが―。
身を翻したのは勿論、これから起こるであろう陰惨な一幕に胸を翻す観客となることを決めた男ではなく、それを見ることを拒んだ彼女の方だった。


 何が起こるか判っていても、見てはいけない、聞いてはいけない。
 彼女はあくまでもこの物語に紛れ込んだ傍観者に過ぎず、全てを見届けることを赦された絶対者ではない。それ以上その場所に留まることは、彼の誇りに対する
冒涜以外の何者でも無かった。
 ことが始まる前に立ち去ろうと必死で階段を駆け上がり、硬く閉ざされたドアをないもののようにすり抜けた瞬間、そこを護っていた牢番が、嘆かわしいことと首を
振りながら同僚に向かって呟くのが聞こえた。
「よもや教会の地下でこんなことが行われていようとは。一体、神は何処に…」 
 もし彼等がいう神がいるとすれば、それは全てを見届けることを赦された絶対者だ。だが、今彼女が願うのは、彼を救う誰か。或いは無力でもいい、せめて彼の運命
全てを見届け、心を痛める誰かの存在だった。


 だれか一人だけでも、彼を見守っていていて欲しい。


 たとえそれが、死せる少女の魂であっても。
 


「あれ、読むのやめちゃうの?」
 無邪気な声が降り注いだのは本を閉じた後だった。
「物語だって判ってはいるんだけど、どうも見ていられなくなって。アンティーは何を読んでるの?」
「えーと、100万回位生きた自分勝手な猫の話?僕はやっぱりこういう自分勝手な話の方が好きかな。僕は多分、生き残ることに躊躇わないから。」
 ぽつりと呟くその横顔が酷く大人びて見えたのは、気のせいだったのか。自分勝手な猫の話を隣から覗き込みながら、彼女は小さく溜息をついた。