「あ、可愛い―」
 るいから送られてきた画像を見たとき、思わず漏れたのは感嘆の声だった。船室に置かれたソファーに、長い脚を高々と組んで座って航路図を見ている
ライの隣にとすっと腰掛け、ユギは見て!と携帯の画面をその眼前に突きつけた。
「お?」
 つられるようにして覗き込んだライは、画面いっぱいに表示されている画像の下に描かれている文字を読んで眉を顰めた。
「―『暴君アリス』?」
「今秋のTacのイメージは『強い女の子』なんだって!!アリスとか、白雪姫とか、人魚姫とか―。そういう物語の女の子達が、もし今の女の子位負けん
 気が強かったら―?っていうコンセプトのラインナップらしいよ。」
「へぇ。…で、どれ着るんだっけ?」
「アリスだよ。」
 堪えながらユギは、画面中央の服を指差した。青いワンピースの上に白いフリルのついたエプロン―という姿は至って普通の「アリス」のイメージ通りだ
が、エプロンに金糸で縫い取られたアリスとウサギのデフォルメイラストと、それからどぎつい色合いのボーダーソックスがその古典的な雰囲気を良い感じに
スポイルしている。るいらしい、遊び心を忘れないデザインだ。
「じゃ、これを着るのは誰なんだ?」
 次にライが聞いたのは、赤と黒と白の三色で構成された、豪奢なドレスだった。胴を絞り上げてデコルテを強調するコルセットと、そこからふんわりと広がる
ロココ・ラインのスカート。靴は腿まである長さのバレエ・ブーツで、明らかにこれは装飾性のみを意識したものだが、奇妙に似合っている。
「ハートの女王はユエさん。」
「…へぇ、あいつならこれでも歩けそうだな。」
「…え?このブーツ、歩けないの?」
 左右違う色の瞳をきょとんと見開いてユギは尋ねる。確かに普通の女性が知っている類のものではない―とライはにやりと笑って、
「…ユギちゃん。履いてみる?…ずっとお姫様抱っこだよ?」
 と、囁いた。
「い、いいっ!!」
 そういう表情をするときは、絶対に恥ずかしい言葉が待ち構えているのだと知っていたから、彼女はぶんぶん頭を振って勢いよく立ち上り―

 その拍子に、携帯がライの手から滑り落ちた。船の中にいた記憶は、そこで途切れている。

「…ギ…おい、ユギ!!」
「ん…」
 目が覚めた時、目の前にあったのは必死なライの顔だった。ゆすり起こされたユギは目をぱちくりさせると、
「ライ…なんでそんな、奇妙な格好してるの?」
「俺が聞きたいぞ。」
 と問いかけた。ユギの素朴な問いに、ひょいと肩を竦めて返したライの格好は―上半身に何もきていないのは大して珍しいことではないのだが、
ピンクと紫というサイケデリックな色合いのリストバンドに、同色のズボンといういでたちは、まるで何かの仮装のようで―。
 そこまで考えた瞬間、ふと思い当たったのが、るいから送信されてきたデザイン画だった。
「チェシャ、猫?」
「お前はアリスだし、そう考えるのが妥当かもな。」
 言われてユギははっと自分の格好を見直す。白いエプロンに縫い取られている柄は確かにるいがデザインしたもので―。だが判らないのは、何故自分
達がこんな格好で見知らぬ場所にいるか、ということだった。
「とりあえず―ちょっと辺りを探索してみるか。」
 ため息混じりに呟かれたライの言葉に頷くと、二人は歩き出した。

 暫く歩き続けると、木々の茂みの影に紛れるようにして、金髪を高く結い上げた女性の姿が垣間見えた。
「…お、人がいるみたいじゃねぇか。あの格好は、女王か?」
 これは見ものだ、とひゅっとライは口笛を吹いて近寄っていく。
 だが、ユギが目を奪われたのはもっと別のものだった。ライの手を握るつもりでうっかり尻尾を握ってしまい―彼はふが、とよく判らない悲鳴を上げる。
「ユギっ、おい、尻尾は、尻尾はやめろ!!」
「ライ、あの人の腕見てないの!!」
「は、腕?」
「ほら―」
 先ほどの携帯の画像の中に入っていた、ハートの女王の服を纏った女性。そこまでは普通だが―細かいレースに縁取られた袖から覗くのは、確かに―
銀地に色とりどりの輝石を埋め込んだ鋭い鎌だった。
「…ち…」
 生真面目な顔になってライはかすかに歯噛みする。体術勝負なら負けない自信があるが、あれだけ大振りな鎌ではまず接近戦に持ち込むことが難しい。
相手に敵意があったら厄介だ、戻るぞ、と彼が言いかけた瞬間―がさりとユギが草の音を立ててしまい、女性が振り向いた。

 お互いに、驚いた顔をしたのは一瞬。

「あなた達…!!」
 その女性は慌てたように一歩を踏み出し―その拍子にぐらりとよろめいて手近にあった木に鎌を立てて縋りついた。
「ママ!!」
 慌てたような声と共に彼女の傍にふいっと妖精?らしき存在が舞い降りる。
「あなたたちも、この世界に迷い込んだんでしょう?」
「うん…っていうか、大丈夫?」
 その言葉に、ユギは足を止め、振り返る。意を得たとばかりにこっくりと頷く彼女に歩み寄って立ち直るのに手を貸してやりながら尋ねると、
「靴が凄く歩き辛くて…。」
 苦笑気味に相手は返してきた。
「私はフォーチューン、こっちは私の息子でアンティエルド。宜しくね。…といっても、この腕じゃ握手のしようがないんだけれど。」
「私はユギ。」
「俺はライだ。…あんたも迷ってるってことだな?」
 そういうことね、とフォーチューンは頷き、今は帽子屋に会いにいく途中で、休憩を入れていたところだったのと付け足す。迷い人同士、折角だから
一緒に行かないかという誘い掛けに、ユギは少し躊躇ってから頷く。見た目は怖いが、悪い人ではなさそうだ―。
「決まりね、じゃぁ、行きましょうか。」
「え、その靴で歩くの?」
「まさか。」
 フォーチューンは可笑しそうに笑うと、いらっしゃい、と声を張り上げる。ばさばさと大きな羽音と共に舞い降りてきたのはグリフォンで、その背中の上に
設えられた馬車に一向は乗り込む。
 帽子屋のお茶会に行くのよ、と告げられたグリフォンはもう一度空に舞い上がるが―その乗り心地は―微妙、極まりなかった。
 船で随分慣れているつもりだったが、なんというか―。休憩を入れたくなる気持ちも良く判る。
「おい、ユギ、大丈夫か?」
「正直、微妙かも…」
 体を固くしながら返すと、正面に座っていたフォーチューンも真顔でこっくりと頷いてくる。ライだけは慣れたもので、けろりとしたまま眼下の風景を眺めて
いた。

 幸い、飛び立った場所からお茶会の会場まではそれほど距離がなかったようだ。気分が悪くなる前にたどり着けたことに正直感謝しつつ、ユギは目の前
の異様な光景にぽかんと立ち尽くした。
 だだっ広いテーブルの上には、ティーセットやスコーン、シュガーポットなどが息苦しげにひしめいている。座っているのは、なんだか微妙に目の焦点が
合っていないウサギと、ぼろぼろの帽子を被った男だった。三月ウサギと帽子屋だろうが―二人で消費するには、どう考えても多すぎる量である。
「お茶どうぞー」
「え?」
 一行の姿を認識するなり、ウサギと帽子屋は空っぽのティーカップを差し出して言ってきた。
「「今日はあなたの誕生日?」」
「ち、違うけど…」
「それはめでたい!」
「それはめでたい!」
「あ、ありがとう…めでたいついでに一つ教えて欲しいんだけど、この世界から出るには、どうしたらいいの?」
「世界から出る?」
「何を言ってるか、良く判らない。」
「ユギちゃん…」
 フォーチューンがそっとユギに声をかけ、任せなさいとでも言うように一歩前に進み出て、
「じゃぁこの世界でいちばん何でも知っているのは、誰かしら?」
 と子供にでも尋ねるかのような口調で問いかけた。
「「芋虫!!」」
「そうそう、芋虫は賢い」
「うるさいけど」
「そう、じゃぁ、芋虫は何処にいるのかしら?」
「湖の葉っぱの上。」
「湖―?」
「みずうみは、みずうみ。」
「湖はどっちの方向?」
「湖は、北」
「違うよ、南」
「おひさまが上る方」
「お日様が沈む方」
「…話が通じる相手じゃねぇな。」
 てんでばらばらな二人の発言に、ライは腕組みしたまま難しい表情を浮かべた。
「このままじゃ埒があかねぇし…さっきここに来るとき、湖らしきものが見えたから―とりあえずそこに行ってみねぇか。」
「そうね…。行きましょうか。」
「アリス、アリス。」
 立ち去ろうとしたとき、帽子屋とウサギがユギを呼び止めた。
「君の何でもない日に、乾杯!」
 そういって手渡されたのは、ティーカップとティーポット。「魔法瓶だから、中々冷めないよ」と、ウサギは真顔で言うが、魔法が掛かっているティーポット
なのか、それとも俗に言う「魔法瓶」なのか、今一判別できなかった。

 ライの見つけた湖はずばり正解で、うるさいけど、と帽子屋達が言っていたとおり、芋虫は相当な変人だった。訳の判らない事ばかり言う芋虫に紅茶を
ぶっ掛けるよと脅してなんとかユギたちは「王様」と呼ばれる存在の居場所を聞き出す。
 芋虫の言うとおりの方角に進んで辿りついたのは、何故かクリケット場だった。緑が眩しい芝生の上に立っていた小さなトランプの王様が、
「女王、アリス、チェシャ猫、遅いぞ。」
 と四人の姿を見て苛立ったように言う。
 お待ちしておりました!とトランプの兵士達が、ライとユギにフラミンゴとアナグマを手渡した。
「…何かしら、これ…。」
「アリスってことだから…これでクリケットなのかな。」
「動物虐待にも程があるわ。」
 フォーチューンは憤慨したような表情で、ユギが抱えたフラミンゴを見やった。マレットとして使われているせいか、頭の部分がもう大分禿げかかっていて
情けない目をしている…まるで生きることに疲れているようだった。
「女王はこっちだ。観戦するぞよ」
「観戦…いいえ、私はこの競技の中止を求めるわ。」
「女王よりも王様は偉い!!王様が一番偉いのだ!だから、王に逆らってはいけない!!」
「……」
 駄々をこねるトランプの王相手に、フォーチューンは呆れたように息を吐いた。そこへユギもむっとしたように口を尖らせて加勢する。
「私も不参加!これは可哀想すぎるもん!!」
「えぇい!お前達、王に逆らうのか!!??」
「王様なんて知らないよ!!だって、アンタ、所詮トランプでしょ?」
「…不思議の国のアリスでも―ふふ、一番強いのは女王じゃなかった、かしら?」
 片側からは紙の天敵、紅茶がなみなみと注がれたティーカップを手にしたユギが。
 もう片側からは、首斬り役人よりも鋭い鎌を持ったフォーチューンが迫る。
 トランプの王様は震え上がり、くるっと背中を向けると―走り出した。
「あ、待てっ!!!」
 ユギは弾かれたようにその後を追いかけるが、その間に割り込むようにトランプの兵士達がどやどやと彼女を取り囲む。
 続いて後を追いかけようとしたフォーチューンは、高すぎるヒールに足をとられてぐらりとよろめいた。
「ユギちゃん、追って!!」
「くっ…判ってる!!」
 まぁ所詮、槍も体も紙製のトランプ、刺されてもぶつかっても痛くもかゆくも無いのだが、こう群がって押し合いへしあいされては厄介極まりない。
「あぁもう、どいてよっ!!」
 ユギが声を荒げた瞬間、
「ぉらぁ!!」
 その背後から追いついたライが、まとめてトランプたちをなぎ倒した。
「行くぞ!」
「ひぃぃぃっ!!」
 トランプの王様は何度も振り返りながら走るが、勿論海賊暮らしで体力のある二人と、ぺらぺらの王様ではその差は歴然だった。
 すぐに追いついたライの手が王様を掴もうとした―その一瞬前、王様はぴょん、と地面に飛び込む。
「!?」
 何だ、と思う間もなく、王様が消えたその地面が見る間に黒い、底の見えない穴に変わってしまった。
「何、これ…?」
 遅れてやってきたフォーチューンも、その地面に穿たれた穴が何なのか戸惑った表情を浮かべる。
 穴は刻々と広がり―直系3メートル程度になった所で、拡大するのをやめた。その代わりのように、強い風がそこを中心に吹き抜けていく。
 いや―ごうごうと風が唸りをあげてその穴に吸い込まれていく、のだ。風だけではない―と、ユギは直感的に感じた。この風の中には、今まで自分達が歩いて
きたこの世界全てが取り込まれていっている。風を見る瞳が、そう告げているのだ。
「…ここが―出口だ。」
 思わずぽつりと呟くと、フォーチューンは微かに驚いたような目でユギを見た。
「あなたも、そう思う?」
「うん。」
「じゃぁ、きっとそれが正しいのね。…それじゃぁね、ユギちゃん、ライさん。…また、縁があれば会いましょう。」
 フォーチューンに躊躇いは無いようだった。アンティエルドがふわっと肩に舞い降りたのを確認すると、一気に穴の中へ身を躍らせる。真っ暗闇の中浮き
上がるようなドレスの白さが見えなくなる直前、白い鳥が飛んでいくように見えたのは―果たして気のせいだったのだろうか。
「…さて。」
 少しの沈黙の後、ライがいつもと変わらない口調で言う。
 ま、ぶつかるときは俺が下な、と相変わらずの口調で言うと、ライはつとユギの手を握った。
「じゃぁ、行くか。あ、ぶつかるときは俺が下な。」
「うん!」
 勿論彼ら二人に、戸惑いなどは無い―。チラッとお互いの顔を見て共犯者の笑みを交わすと、階段でも下るような気安さで奈落へと飛び込んだ。

 世界の果て―ここも一つの世界の果てかもしれない。と、ライにぎゅっと抱きしめられながらユギはぼんやりと思う。
 落下していく。ひたすら落下していく感覚は、段々と曖昧になり―落ちていくというよりはゆらりゆらりと揺られていくようなものに変わっていく。

 そして―気付いたとき、そこは再び船の中だった。昼寝をしていたのでは―と自分でも疑ってしまいたくなるくらいあたりは静かで、聞こえるのは船の
モーター音と船隊に当たる波の音位だ。
「夢?」
 今一呂律の回らない口調でユギが尋ねると。
「―さぁ。どーだろーな。」
 やはり疲れた声でライが返す。だが彼女の顔にまだ少し不安が残っているのを見て取ると、チェシャ猫めいたにやり笑いを浮かべて
「ま、俺は―一足先に、ユギのアリス姿が見れたからいい夢だったと思うよ?」
「…!っ!!」
 と告げた。気障ったらしい、だがこの男が言うと何故か奇妙に様になる愛の言葉に、ユギは少し顔を赤くして―手近にあったクッションを、その顔に叩きつけた。