(まさか、本当に地獄に来るとはね―。)
目の前に広がる世界を眺めながら、フォーチューンはため息をついた。
ここは『地獄』の魔王宮―かつて白百合姫がいた人間界とは全てが異なる、欲と力のみが全てを支配する世界の中核。
この城の一角に、「保護」と言う名目で軟禁されている「白百合姫」―ことリリィに会いに行くと言ってアンティエルドが飛び出したのは、かれこれ2時間ほど前の話だ
が、彼の行方はようとして知れない。この付近にいるということと、それから伝わってくる感情パルスが安定していることから危険な状態でないことは判るのだが―
だがここは悪魔の巣窟のような場所である。安全、などという言葉は無いものと考えていいだろう。
彼女自身も、先程から自分の後をついてくる悪魔の存在に悩まされ続けていた。出会ってからかれこれ10分、会話をするわけでもなく攻撃を仕掛けて
くるわけでもなく、ひたすら後を歩き続ける彼が、話の中で何度か出てきた「カルメロ」という名前の悪魔ではないかということはその外見から想像がついたが
―何故ついてくるのか、その真意は不明だ。
そして、背後を気にしすぎていた彼女は、同時に側方に対する注意を完全に怠っていた。
「何だぁー?えらく気取ったカッコの淫魔じゃねーか。」
心持しゃがれたような低い声が聞こえるのと、問答無用で腕が捻り上げられるのは略同時だった。不自由な体勢の中で何とか首を捻って、人を淫魔呼ばわりする
失礼な相手の顔を見た瞬間―一瞬、意識が真っ白になる。呆れるほど大柄な男の、その岩のような面はあちこち傷だらけで、「すげぇ上玉じゃねぇか」と見下すように
にやりと歪められた唇からは鋭い犬歯が覗いていた。
ジャガーノート将軍。
性格は獰猛かつ横暴。強大な力を持ち―それ故に、封印されていた魔人。
たとえその存在を知らなくても、彼が全身に纏う貪婪な猛獣のような血腥い気配は、一目で相手に恐怖を与えるだろう。だが幸か不幸か―彼女はその存在を知っていた。
思わず強張った表情を、しげしげと相手は眺め―
「見ねぇ顔だが…気に入った、ちょっと相手になれや。」
と、物でも放るような無造作さで言い放った。
「…ううううう。」
あまりの言い草に絶句したフォーチューンの変わりに、カルメロが威嚇するように咽喉の奥から唸り声を上げると、ジャガーノートはやっと彼の存在に気づいたようだった。
あぁ?と言わんばかりの顔でカルメロを見―そして
「へッ…それのお守り役か。まぁ、俺の知ったこっちゃねぇなぁー…ガキの面倒見るより、突かれてる方がおめぇも性に合ってるだろ?」
と、完全に無視して続けた。「お離しなさい」と棘のある口調で放たれた言葉にも動じた様子は無い―端から他人の話など聞く気は無いのだろう。
「今ビミョーに、小腹が減っててな―無性に、肉が喰いてぇ。」
何故その二つの行為が同一線上に並べられるのか―そんな素朴な疑問よりも先に、逃げなければという意識が働いた。失礼な物言いを訂正してもらおうと思って
それまで唯の布地に過ぎなかった袖が、一瞬にして鋭い鎌に変貌を遂げる。鋭い刃を握ったせいでざっくりと切れた手から力が抜けたのを見逃さず、振り払うと
フォーチューンは全力で駆け出す。
目指すのは、廊下の先にある窓―此処が何階なのかというよりも、兎に角ジャガーノートから逃げることが最優先だった。
その時、脇から彼女を追い抜いたのは、先ほどからずっと後を歩いていたカルメロの姿だった。挟み撃ちにされる、と思ったのも一瞬で―何故か彼はフォーチューンの
腕を取ると、引っ張るようにして走り続けた。音を立ててひとりでに開いた窓のさんを飛び越え―虚空に身を躍らせる。
改めて気づくと、地面までは相当距離があった。直接地面にたたきつけられたなら、致命傷は免れないだろう。相手がどういうつもりで彼女を連れて飛び降りたかは
判らないが―。だがこのままむざむざ地面に激突する気も、また曲がりなりにも助けてくれた彼を放り出す気もなかった。
「手を離して!このままでは、あなたを連れて飛べないわ―!!」
「ちがう。とぶ。」
必死の叫び声とは裏腹に、カルメロがたどたどしい口調で断言すると―それが宣言だったかのように、ぶわっと足元から風が巻き起こる。
「!!??」
驚嘆したのもつかの間、その風に乗るようにして彼らは―緑が茂る城の一角に舞い降りた。
殆ど一瞬で、何が起きたのかはっきりとは理解できなかったが―周りを見渡す限りでは、どうやら近くに彼を除いて悪魔はいないようだ―
「にんげん、は、ここ。」
厳しい表情で近隣を確認する彼女に対して、カルメロは淡々と言う。
「ありがとう、助かったわ。でも、どうして―」
「あれ、きらい。それ、すき―」
何故安全な場所に自分を連れてきたのか―間近で見れば見るほど、表情も考えも読めない相手だった。戸惑い気味に礼を述べると、カルメロはこっくりと頷いて、
代名詞だけの判り辛い返答を返してくる。あれ、というのがジャガーノートのことであるのは何となく判ったが、それ、と言われて指差されたのは―
(まさ、か。)
半信半疑ながらフォーチューンは簪に手を遣った。どうも―彼が先ほどからずっと見ていたのは、この簪だったような気がする。先端に濃藍の玉を閉じ込めた丸い籠、
その籠からは蔓を模した細い鎖が幾重にも垂れているという意匠の簪は確かに可愛らしいものだが、悪魔の、しかも男が欲しがるようなものとは到底思えなかったので
否定し続けていたのだが、
「…好きなのは、もしかしてこれかしら?」
確認する意味で振ってみせると明らかにカルメロの意識はそちらに持っていかれているようだった。目の前にボールを出された子犬のように、興味津々といった体で
それを見ている。初めて見せた反応らしい反応が面白くて、しゃらしゃらと猫じゃらしの要領で揺らしてみると―猫が獲物に手を出す素早さで、カルメロは手を伸ばしてきた。
刹那―
爆発的に巻き起こった「何か」に、戦いに慣れた本能が体を動かしていた。何が起こったのかを悟ったのは、背後にあった木がずたずたに切り裂かれていたのを見たときだった。
「……あ。」
その声音から察するに本人はただ手を伸ばしたつもりのようだったが―その拍子についうっかり風を操る彼自身の能力を発動させてしまったらしい。一瞬反応が遅れたら
直接それを受けていたのは自分だと、辛うじて避けたフォーチューンは詰めていた息を吐いた。
一見善良に見えた彼だが―確かに、魔王軍の幹部を務めるだけある。本人に悪気は無くても、その力は絶大だし、行動が予測不可能だという意味では全てが脅威になりうる。
…完全に、小さな動物を扱うような気分になっていた自分にも非はあっただろう。
「カルメロ。」
「?」
名前を呼ばれて首をかしげた相手の、もこもこしたファーハットに簪を通す。
「今のはからかった私が悪かったわ。助けてもらったんだし…それは、お礼。」
「おれい?」
帽子に簪、というのはいかにもアンバランスだったが…カルメロは不思議そうに言いながらも、気に入ったのか頭を振ってはちりちりと金を鳴らす。
「助けてくれてありがとう、ということよ。」
「誰か、いるんですか?」
高く立ち並ぶ植え込みの向こうから、白いドレスを着た女性が顔を出したのは、丁度その時だった。
「白百合、姫…??」
そんな偶然―。挨拶も忘れてフォーチューンは目の前の奇蹟の名前を呼ぶ。勿論直接彼女との面識があったわけではなく、本の中で読んだだけで
はあるが―その清楚な気配や類稀に美しい容姿は、確かに物語の中の姫そのものだ。
「あなたは―?」
突然の見知らぬ来客に驚いたようにリリィは声をあげ―その隣にいたカルメロを見ると、
「今日は、お客様が多い日みたい。」
とにっこり微笑んで後にいるであろう相手に声を掛けた後、二人を植え込みの向こう側へと招いた。
植え込みの向こうは、白百合を初めとする様々な花が生けられた庭だった。丁度午後のティータイムだったのだろうか、小さな机の上にはティーセットが並べられ、
リリィよりも少し年下に見える細身の少女が、席に座っている。空いた席は二つ。リリィと―それから。
「あれ?ママ?」
間の抜けた声が響いたのは、その空いた席付近からだった。声の発信源に目をやると、ティーカップやポットや食器に混じるようにして机の上にぺたんと
座っているミニチュアサイズの人影がある。
アンティエルドだ、とわかった瞬間、安堵のあまり全身から力が抜け、フォーチューンは思わずその場所にへたりこみかけた。そんな彼女の気苦労をしってか知らず
か、
「姫にね!アップルパイ貰ったんだvvすっごい美味しいんだよーvv」
アンティエルドは両手で抱えた銀製のフォークを振り回しながら嬉しそうに言う。余りに楽しそうな光景に呑まれ、口の周りにジャムがついているのを見て、
またお行儀の悪い食べ方をしたのね、と思わず嗜めようとして―彼女は唐突に本題を思い出した。
「白百合姫にジゼルさん、ちょっと失礼するわね。……アンティエルド、言うべきことは違うでしょう?」
感情的ではないが何時に無く厳しい声音に、アンティエルドは思わず飛び上がる。
「ふぇ?…な、何?」
「どうして勝手に出て行くの?危ない所には勝手に言っちゃ駄目って何回も言ってるでしょう。今回は無事だったからいいけど、ここが魔界で、凄く危険だってことは
判っているでしょう?」
「だ、だって…僕…」
「お、怒らないであげてください…」
「きちんとした理由があるなら、聞くわ。説明して頂戴。」
「―――えーと、えと、な、無い…です…。ごめんなさい…」
その後、正座お説教タイムは十数分ほど続いた。
声を荒げたりはしないが、なかなか手厳しい口調で続けられる説教を唐突に遮ったのは―意外なことにカルメロだった。ジゼルと遊びつかれたのだろうか、てくてくと
フォーチューンの所に歩いてくると、
「いい、におい。」
すんすん、と子犬のように鼻を動かすなり―ころりと膝を枕に横たわる。
「ぇ?」
話の腰を折られた形になった彼女は、唐突な彼の行動に呆気に取られて目を見開く―だがそんなことはお構い無しに、カルメロはすやすやと寝息を立て始めていた。
「………」
「………」
「………」
完全に空気を読んでいない言動に、一同は言葉を失う。
沈黙を破ったのは、フォーチューン本人だった。ふっと力が抜けたように笑うと、小さく肩を竦めて
「駄目だわ、人を叱れる感じじゃないわね。…アンティエルド、私が今言ったことの意味をもう一回よく考えておいて。」
と言う―アンティエルドは神妙な表情のままこっくりと頷いた。
「もう怒ってはいないから―ね?さ、折角お茶を頂いているんだから、きちんとテーブルに戻りなさい。」
「…うんっ!」
その言葉に、先ほどのしょげ具合とは一転―嬉しそうにぱたぱた彼はリリィの方へ飛んでいく。
「はい、どうぞ。―如何ですか?」
彼が使っていた小さいカップに新しく紅茶を淹れてやりながらリリィは尋ねるが、万が一お湯を被せてしまったら悪いわ、とフォーチューンは手を振ってそれを断り、
「彼は―此処が一番安全だと、知っていたのかしら。」
問いかけるように呟いた。
「…良く、ジゼルの所に遊びに来ているから―多分、お友達が増えたと思ったんじゃないかと思います。」
「そう…どちらにせよ、本当に彼には助けて貰ったわ。」
慈しむような目で彼女がすぅすぅと寝息を立てる彼の髪をそっと撫でると、む、という唸り声。暫く相手が誰なのか悩んでいたようだったが―大きくため息のような息を
吐いた後には―また、規則的な呼吸が戻っていた。
「…ありがとう。」
―いつしか、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
後日談。
バタバタバタバタっ!!
激しい足音と共に庭へ駆け込んできたのは、息を切らせたジゼルだった。
「どうしたの、ジゼル?」
聞いても勿論返事は返ってこない―ただ、リリィの肩をしっかりと掴んで、がたがた震えている。その後をてくてくとやってくるのは、何故か微妙に血のついた簪を手にした
カルメロだ。
何が―と振り返ったリリィは、ジゼルの頭に小さな傷があるのを見て取り、何が起きたのかを悟る。
この間彼がジゼルにリボンをつけようとしていたことがあったが、今回は恐らく、簪をつけさせようとしたのだろう―。だが、拷問の時に毟られたり切られたりしてしまった
彼女の髪は、到底簪を挿せるような長さではない。恐らくそれを判っていないまま、何とかしようとした結果―頭に直接刺すという手段に出たのではないか。ジゼルの
異常なまでの怯え具合も、それならば納得がいく。
「…つける。」
リリィの前まで歩いてきたカルメロは、一言そう言い放つと無造作に簪を持った手を振り上げた。
「…ダメっ!」
そのままぐさりと脳天に刺しかねない勢いに慌ててリリィはその手を掴み、簪を取り上げる。
「そういう風には、使えないの。…はい。」
見本を見せるような気持ちでそれをカルメロの服の襟に留めなおしてやると、彼は暫く不思議そうに、ちりちりと鎖を鳴らしたりしていたが―。やがてひょいっと襟からそれを
引き抜き、今度はきちんとジゼルの服の襟にそれを留めなおした。
「ぇ…ぁ…。」
狼狽したようにジゼルはリリィを見て、更にカルメロを見やる。其れに対してこっくりと頷く表情の無いはずの顔が、何故か満足そうに見えたのは―リリィの、
気のせいではなかったかもしれない。