おひめさまは、しらなかったのです。
連れて来られたその場所が、「地獄」と呼ばれる場所だったということを…。
ぞくりとするような、血が通っているとは思えない真っ白な肌、燃え盛る絶望の竈のような、或いは噴出した鮮やかな血のような真紅の瞳―
王子様は、彫像のように美しい人でしたが、同時に彫像のように何も感じていないような人でした。少なくとも、王子はリリィの前ではいつも高貴さと冷静さを
巧みに身に纏っていて、その下を伺う事は出来なかったのです。
それもそのこと、リリィは知りませんでしたが、王子様は、魔界における最高権力者、魔王の息子―。群がる悪魔達や人間などが並び立つことの出来ないくらい、
深い深い、煌くほどの暗黒より生まれた存在だったからです。
それでも、リリィの前では、王子様は至って普通に振舞っていました。彼女が大切な客人で、自分はその保護者である―とでも言うように。確かに王子様は、
庇護者としてはこれ以上を求めることはできないような人でした。
だからおひめさまは、判らなかったのです。
その王子様が、悪魔であるということも。
ただひとつ、おひめさまが感じた奇妙な事といえば―何度聞いても、王子様が自らの名前を明かすことはなかったということでした。
幾ら本を読んでも頭に入ってこない―。何度も何度も、視線が行の上を滑っては戻り、滑っては戻りし―王子の外見の描写のところなど、そらで言える位である。
それは、ただ単純に文字の羅列を追うだけの黙読が久しぶりのものだったからだけではないだろう。
話を追えないのは、苛々しているからだと、自分でもはっきり自覚している。
フォーチューンが、戦闘続行が不可能なほどの大ダメージを受け、半ば死に掛けて彼と「交替」を行ったのはつい先日の話。プログラムの修復
に思ったより時間を取られているようだが、状況はまだ予断を許さない状態にあるらしい。
そして、何より今問題なのはそれをもたらした張本人であるジグムントが、何を考えているのか、アンティエルドの前に姿を現したということである。
本に目を落としている彼に向かい、
「ほう、母親が死に掛けているのに、随分と冷たいものだな―」
とわざわざからかうような声を掛けてきたのにも腹が立った。何を涼しい顔をして。と毒づきたくなったが、真面目に取り合うのも面倒だったので
「死なないって信じてるから平気。」
投げ遣りに答えながらちらりと相手に目を向ける。ジグムントに戦う気は無いようだった。部下無し、ご自慢の大剣も持っていない―。優雅に歩を
進める様にも、明らかな隙が見える。
「……本当にそんな表情をしているな。」
歩み寄ってきた男の、確かめるように伸ばされた手が、顎を持ち上げた。明らかに相手の屈辱感を煽るための仕草は、同時に絶好の反撃の
チャンスではあったが―アンティエルドの手が武器を取ることは無かった。
勿論この男の高慢ちきな顔面に一撃を喰らわせてやれば胸は空くだろう。だが―その後に続く戦闘や、それが抱えるリスクのことを考えると、
反撃に出るわけにはいかなかった。この身体で受けたダメージの一つ一つが、リンクで繋がっているフォーチューンに蓄積される。今の怪我の具合を
考えると、それは致命的な問題だ。
「僕の顔に用事でも?…キスの一つでもしてあげようか?」
せめてもの代わりに、アンティエルドが口元を歪めて揶揄するように笑うと、
「口先ばかり…矢張り、戦う気は無いか。」
鏡像のように嫌味な笑みが、そう返してきた。
「それは君も同じでしょ?」
「―この状態のお前に怪我を負わせたら、あの女が死にかねない。お前のやかましい口を顔ごと潰してやれないのは残念だが。」
彼がぎょっとしたのは、勿論その脅しにではない―ジグムントが、攻撃を仕掛けない理由をずばり言い当てたからである。
「へぇ……僕等について、中々良く調べてきたみたいだね。」
「お前たちが予測しているよりは多くを、な。」
知られている―そんな不気味さに、零れたのは棘のある本音。
「お前の母親に伝えておけ。…次は逃がさん。大人しく私に従うか、或いは屑データとなって利用されるか―どちらが良いか、返事を決めておけ、と。」
勿論、それに動ずるような―いや、それを気に留める様な男でもない。まるでアンティエルドの言葉など届いてはいないかのように自分の目的のみを押し付けて来るのみだが
「あぁ、それについてはね、今此処で僕が代理で答えておくよ…NO、だ。」
この返答にはさしものジグムントも反応を返さざるを得なかった。口の減らない子供だ、と溜息をつき
「…やれやれ、フォーチューンとお前、どちらを先に殺しておくべきか、考え直さなければいけないな。」
と、独り言のように―あるいは脅迫のように―呟いた。
「悩んでいるようだからアドバイスしてあげる。もし僕らが負けたなら―ママを先に殺してあげるといい。僕が死ぬ姿をママに見せる位ならば、僕が最後まで苦しんだ方がマシさ。」
「……ほぅ。…呆れるほど美しい心構えだな。」
これ以上の会話は不毛と判断したのか、それとも負けが決まっている犬の遠吠えと判断したのか―微かな笑いと同時にジグムントは姿を消していた。
取り残されたアンティエルドは、ふぅ、と息を吐くと本を閉じ、硬い本のカバーに額を当てる。
男は消えたが、苛立ちが消えるわけでもなかった。
話の王子のように、力があれば。(最も、彼はさらなる力を求めていたけれど。)
ジグムントの言葉など虫の羽音のように聞き流せるだけの実力が今あったら―或いはあの男を黙らせるだけの実力が今あったら―さぞかし
良いだろう、と思わざるを得ない。
力が全てではないと繰り返し教えられて育ってきたはずなのに、それでも尚力を求めている自分の弱さに―だめだだめだ、と、彼はぷるぷる首を振った。
力を持つことより、更に大事な事があり―それは時に、単なる力を凌駕するのだと、この物語も語っているのに。判っていても―まだ、できないのだ。
「白百合姫…。中々、上手くいかないよ…。」
そう目を閉じて呟く様は、どこか祈りの姿に似ていた。