とにかく、逃げ込めるなら何処でも良かった。
 本当に安全な場所なんて、もう、思いつかないから。

「はッ…はッ…!!!」
 必死で駆けるその耳元で、空気が割れる。風を切るような鋭い音と共に、ふわっと、視界に広がる浅葱色。
反射的に払った爪ががちんと音を立てて、振り下ろされたた刀と噛み合った。
「……!!!!」
 反対側の腕からの一撃を恐れたのか、相手は反動を活かして後ろに飛び退る。その隙を突いて彼は身を翻し、
わき目も振らずに駆け出した。
「待てッ…!!!」
 思わず声を張り上げた青年は、図らずとも全身を襲った咳の発作に身体を折る。心配そうに駆け寄ったほかのメンバーに、
「構わずに…追ってください…」
 苦しげに言うが、その時にはもうガルーの毛皮に覆われたその姿は消えていた。端正な顔を歪め、「…次は、ありませんよ。」と彼は呟く。


 何故なら、追われていた少年は「ダークロイド」。
 けして、「許されてはいけない」存在だったのだから。
 
 
 転がり込むようにして逃げ込んだのは、ウラインターネットともオモテインターネットともつかない、真っ白な、だだっ広い空間だった。
先ほどのオフィシャルの様子からしてもう追ってこないだろうとは判っていても、もしやってきたら?という恐怖に駆られ、少年は自分が飛んできた
リンクを力任せに切り裂く。これで当分は機能しないはずだと思いながら、彼は改めて自分が飛んできた場所を眺めた。

 それは、白くて四角い部屋。
 ほの白く雪のように降り積もっているのは、プログラムの欠片だろうか?足元に白以外の色を見つけ、見下ろしてみればそれは、薄っすらと白い埃を
かぶっているものの、紛れも無くあちこちが崩れてしまった「プログラム君」だった。
「ごみばこ」―いらなくなったものが最後にたどり着く場所。
 ふっとそんな言葉が頭を過ぎる。改めて自分の姿を確認すると、胴も脚もあちこち傷だらけで―自分もそう変わらないのかもしれないと、疲弊した心が呟いた。
 いやもっともっと昔から、それこそはじまりのときから…自分は棄てられていたのだろう。


 陰鬱な気分になりながらも、とにかく身を隠す場所を探して歩き出すと、白い景色に紛れるようにして、白い姿がひとつ、降り注ぐプログラムを避けるように
座り込んでいた。思わず身構えるが、逃げ出すに至らなかったのは、相手も彼自身に負けず劣らずボロボロだったからだ。若い女性型ナビが、微かに驚いたような
貌で彼を見つめている。
「…良かったら、どうぞ。」
 一瞬のにらみ合いの後、整った顔の上にかくれんぼが見つかった子供のような、バツの悪そうな笑みを浮かべ、彼女は微かに、座っていた位置をずらした。
「そのままじゃ、バグ塗れよ。」
 それは「隣にどうぞ」という意思表示だったのだろう。彼女が座っていた場所はちょうどひさしのようになっていて、プログラムの破片はそれに遮られて届かない。
幅はそれほどないが、女性ひとりと、それから細っこい少年ひとりならばぎりぎり入れないことも無い程度だった。

(騙されたら?)
(罠だったら??)

 相手の言葉はなんとなく信じられずに、それでもこの壊れたプログラムの一員のように白く染まっていくのは嫌だったので、彼はそこから少し離れた場所に
腰を下ろした。
 世の中総てから身を守ろうとするかのように、或いは世の中総てを拒絶するかのようにぎゅっと縮こまって膝を抱えて座り込むと、先ほどの戦闘で受けた傷が
ダークロイド因子によってじわじわと修復されているのが感じられる。
(ダークロイド因子…)
 自分が追われる理由であるこの因子が自分を救うとは皮肉な話だった。ずきずきと止まらない痛みと悔しさに唇を噛み締めた瞬間、
「隠れ家としては、いいポイントね。」
 世間話でもするような穏やかな声が投げかけられた。
「え…?」
 きょとんと思わず目を見開いて聞き返すと、
「…このバグが、いいカモフラージュになるかもしれないってことよ」
 彼女は特に気分を害した様子も無く答える。そうかもな、と呟いて彼はもう一度膝を抱えなおした。

 しんしんとプログラムが降り続ける。
 「ごみばこ」に居るにもかかわらず、相手の女性は穏やかな表情だった。時々思い出したように彼に声をかけては、短い返事に満足したように頷く。

 どうしてこの場所で、そんな表情ができるのか―その疑問が解決したのは暫く経ってからだった。
「おいフォー、リンクぶっ潰したのはお前か?」
 突然、彼らがいる空間に疲れたような声が降ってきたのだ。
「えぇ…まぁ。」
 声の主は彼女のオペレーターらしい。彼女は苦笑しながら答えていた。お陰でデートに送れるという涙声めいたものも聞こえたが、そんな軽口が叩ける
程度にはこのナビとオペレーターの仲は良いのだろう。

(ごみばこにいても、必要とされているんじゃないか。)
 わがままだとは判っていても、切ない気持ちで俯いていると、その様子が心配だったのか、
「…あなた、大丈夫?ちゃんと帰れる??」
 と女性は問いかけてきた。

 その質問に、特に他意は無かっただろうが―ぐっと、咽喉の置くから何かがこみ上げてくる。
「俺、自立型だから。」
 これを飲み下すと、涙になるということを知っていたので、何とかその隙間から声を絞り出すと、
「…そう。」
 食い違った返答に何かを悟ったのか、女性は微かに申し訳無さそうな表情になると、
「気をつけてね。」
 そう、小さな声で呟いた。

 何に?
 問いかけても仕方の無いことだとわかっているから、小さく頷いた。

 


 残業代は出るのだろうかと呟く声が段々遠くなっていく。図らずともひとり「ごみばこ」に取り残されて―傷が癒えたら、すぐにここを出よう、と彼は考えた。
 ここに一人で居ると―切ないことばかり、考えてしまうから。
 思い出したくないことばかり、思い出してしまうから。