「愛するものに正気なし」

 人を上手に愛するのは、狂気を上手く御すること―それはひどく難しい。たぶん。

 

 重々しい音を立てて、少女の目の前で門が閉じた。だが、閉めた人間の姿は見当たらないし、まさかこの堅牢な扉が、
風ごときで動くとは思えない―。何か超自然的な力が働いた、としか言いようがない動きだった。
 だが、ここまで必死で走ってきた少女―ローザにとっては、扉そのものよりも寧ろ退路が絶たれたということが問題だった
に違いない。慌てたように扉を引っ張るが…扉はがんともしない。
「両開きの扉を開くのは―下賤の者の役目だ。」
 パニックに陥っているローザの背後から、静かな声が掛けられた。はっと振り向いた彼女は、
「…怖いよ…」
 ぽつりと呟き、一歩でも彼から離れようとするかのように背中をぴったりと壁に押し付けた。ゆっくりとした足取りで歩み寄
ってくる男の物腰はあくまでも高貴。顔立ちも仕草同様貴族的な端正なもので、知性を漂わせる細い鼻梁に、真紅の瞳が
印象的だ。目の色こそ常人ではないが、何をそんなに恐れる必要があるのか、傍目から見ても判らない―。
「可愛いローザ…私の花嫁となる身なのだから、そんな品の無い行動を取ってはいけない。」
「嫌っ!!」
 だが、彼女のほうはそれどころではないようだった。殆ど悲鳴に近い声を上げ、彼女は相手の腕を振り払おうとする―。
勿論そんなことが可能なわけが無く、彼の手はしっかりと腕を握り締めたままだった。
「やれやれ…。気が動転しているのは判るが、少しは私の話を聞くべきだろう?」
 宥めるように続けるが、最早彼女に届いていないのは明らかだった―。彼が更に何か口を開きかけた瞬間、ゴォン…と、
荘厳に鳴り響く鐘の音がそれを遮った。
「……」
 男は微かに眉を顰め、音の発生源―瀟洒な尖塔を睨み付ける。ゴォン…ゴォン…間断なく鳴り続ける鐘は、何故か悪意
に満ちているようだった。耳障り、ともいえるほどの騒音に、
「…此処から動かず、待っているように。」
 男は彼女に命じ、そして背を向ける。立ち去り際に―まるで大切な事を言い忘れていたかのように、
「愛しているよ。」
 と呟いた。


 その声を聞いたローザの肩が微かに震え、
(あ。)
 ようやくアンティエルドは彼女の恐怖心の理由を理解した。
amantes amentes
 愛する者に正気無し―。即ち、狂人の愛。
 どこからどこまでが愛で、どこからどこまでが狂気で―。何処までが許容範囲で、何処から異端と虐げられるのか。
 その基準はきわめて曖昧で―繊細なものだ。。

(…この人のは―どっち??)
 そんなことを考えている間に、アンティエルドは自身の後ろに何かの気配を感じた。
「アンティー?こんなところにいたの?」
 聞きなれた声とともに、本の世界から、ぴゅっと救い出される。
「…ママ、続き読みたい!読まないと怖くて寝れない!!」
「…怖い…?」
 フォーチューンは首を傾げ、「Amor」というタイトルを見て微かに首を傾げた。
「…ラブロマンスじゃないの??」
「違う…。とにかく、最後まで読むんだってば!!」
 ばたばたと閉じられてしまったページを捲りながら、ふと思い出したように彼は呟く。
「ねぇママ。人をちゃんと愛するって…難しいね。」
「……」
 虚をつかれたように彼女は目を見開くが、その時は既にアンティエルドの姿は消えていた。
「…そうね。」
 だから、ぽつりと呟かれたその返答は―。此処にはいない、誰かのためのものだったのだろう。